2011年07月03日 (日) | 編集 |
昨日今日は、
徳永英明コンサートツアーVOCALIST & BALLADE BEST
被災地仙台で行われましたね。
仙台のファンの方のになったことと思います。

ファンになって23年、50回ほどライブへ行きましたが、
今でもよく思い出すライブは1988年7月31日の
“Eoria”Live Special DEAR TOURファイナルです。
(実はこのファイナル前日の30日にも行ってました)

前にも記事にしていますが、
2回目のアンコールが忘れられません

当時の徳永さんサイドの様子が
徳永英明ストーリー『未完成』
(由比良・著 1988.9.10初版発行)
に詳しく書かれています。
“エピローグ~やがて来る〝幾つものワンシーン〟のために”
から一部抜粋してみました。

大阪フェスティバルホールのステージは、その『DEAR』を、彼の仲間たちと共に彼らの体と心と喉で届ける旅の最終地でもあった。3ヵ月間で53本と一口で言うが、それは並大抵の“旅”ではない。徳永はコンサート後も機会を見つけ出して宿泊しているホテルの周囲を走り続け、自身の体力を鍛え、ゆるめることをしなかった。あの歴戦の強者・岡井大二さえ、この最終日を無事に迎えた徳永について「頭が下がる。本当に、尊敬する」と語っている。
 「最後の言い訳」で本編を終えた徳永は、当然呼び戻される。アンコールで「ノースリーブのクリスマス」をうたう徳永が立つステージのそででは、手塚が、夢番地の小嶋が、そして手のあいたスタッフが、軽くステップを踏んでいた。それはまるで客席の光景と同じだった。
 いよいよアンコールのラスト「メロディー」が終り、徳永が引き上げてきた。そんな彼を、スタッフは拍手で迎える―。と、徳永がバンドのメンバーを集めた。中山も彼のもとへ飛んでゆく。
 バンドはニコニコしながらもう一度ステージへと戻っていく。中山が、会館側のスタッフの耳元で“お願い”をしている。とうに50歳は越えている“スタッフ”は、中山の話にうなずき、
 「もう一曲、『エロリア』やるぞ!」
 「オッサン、『エロリア』ちがうって言ってるやんか、『エオリア』!ホンマに・・・(笑)」
 彼の子供くらいの歳の、やはり会館付きのスタッフが笑いながら言う。
 その脇で、中山がスタッフに声をかけまわっている。彼の話を聞いたスタッフは、一様に「エーッ!!」と、のけぞる。あわてて楽屋から、今回のツアー・ジャンパーを取ってきたスタッフもいた。
 「風のエオリア」をうたい終えた徳永が話している。
 「今回のツアーを支えてくれたスタッフを紹介させて下さい」
 そでは、もう大変だ。一生けん命に髪を手でとかすもの、少しでも他人より後に行こうとするもの。そんなスタッフを、中山は笑いながら後押しし、ステージへと向かわせる。
そんなスタッフへ、メンバーからひやかしの声が飛ぶ。
 勝又は、橋本や田沼、小嶋と肩を並べてそんな“自分たちのステージ”を、ステージ脇で腕を組んで見ていた。僕は、そんな“彼らのステージ”を、顔の向きを何度も変えながら、見つめた。それは、うらやましくなるような、素敵な“ステージ”だった。
 「草の根の、ヒューマン・ネットワークなんですよ」
 いつか勝又が話してくれた言葉が蘇ってきた。
 ステージでは、笑顔の徳永がバンドとスタッフと肩を組んで、満員の観客に最後の挨拶をしている。ステージ登らされる時は緊張でこわばっていたスタッフは、恥ずかしそうな笑顔に、ほんの少し“誇り”をのぞかせている。
 伊丹からJUNのジャケットに皮のパンツに身を包んで東京に向かってから9年がたっていた。
 徳永英明は、幾つもの場面で、何人もの愛すべき人たちとめぐり逢い、そしていつも音楽に耳を傾けながら、今、その仲間たちと共に、彼と彼らのステージに立っている。
 コンサート・ホールの幕は、いつか降りなければならない。けれど、徳永英明の“心のステージ”の幕が降りることは、ない。彼のストーリーは、永遠に未完である。僕は、そのストーリーにいつまでも付き合える幸せに、心からの感謝を捧げたい―。