2013年01月29日 (火) | 編集 |
先日の『半透明』よりの中で徳永さんが、
「『壊れかけのRadio』の時っていうのは、赤い玉じゃないですか。」
と言われていますが、それについても語られています。
『半透明』(徳永英明 佐伯明・著 2006.2.27第1刷発行)
“第二章”より一部抜粋。
「『壊れかけのRadio』、これは違うんですよ。これは、このカテゴリーはたぶん二度と生まれてこないかもわからない。二度とっていうかしばらくは生まれてこないかもわからない。僕としては、今は『レイニーブルー』のカテゴリーに、僕は行こうと思ってますから。『壊れかけのRadio』っていうのは、すごく自分の中の苦しみから、苦しみと矛盾の中から生まれた曲なんで、たぶんここから先、苦しみと矛盾の中から楽曲が生まれてくることはないと思うんですね、少なくとも、しばらくは。作った時は、苦しみと矛盾の中から自分の過去にぐっと還って、そこにあった光を持ってきた曲ですから。過去の自分をこの曲の中で照らし合わせてますから、それはもう、この曲以降はないと思います」
「例えば、藤沢周平さんも言ってますけど、“この曲を聴くと昔を思い出すんだ、思春期を思い出すんだ、青年に還れるんだ”っていうのは、みんな少年に戻れるところの、あの時のあの思い出を――それが、戦時中の思い出だったり――そういったところの一点、一番自分の思春期になりかけたところにフォーカスしてる歌ですからね。やっぱりなんかひもじさとか苦しみとか、そういったものからじゃないと、生まれてこないカテゴリーなんで、これはたぶんしばらくないと思います。ないし、出ないほうがいいかなと」
つまりは、自分の身を切るようにして生まれた楽曲の最たる例とも、言えるのだろうか。
「うーん、逆に言うとこれは身を切ったかどうかっていうことよりも、その……。すごい比喩になりますけど、よく“赤い玉が出たら、一つ人生終わり”って言うじゃないですか。赤い玉ですよ。僕にとっては。赤い玉を出したんですね。でも白い玉は、たくさんある。赤い玉が出ただけであって。白い玉はたくさんあるから、いいの。そのうち汚れて白い玉が赤くなる可能性もある。人生のうちに、大事な時に赤い玉、これを使いなさいっていうパワーを一つ使ったっていうことですね。なんかもうホントどうにもならない時だけフタをあけてこれを使いなさいっていう、そういったもので、だから、あそこでこれを使わなければ終わってたかもわからない。そういう時に大事な玉を使ってしまいましたね。そう、赤い玉だもん。そりゃヒットしないとおかしい」
こんなふうに発言する時の徳永は、やはり、見えない波動を確かに感知しているように思える。
言い換えれば、ヒット曲に必要な、個人内の波動と世の中の波動との偶然にも見える必然的共鳴である。
「この曲は、朝起きたらそこに楽曲が用意されていたみたいな楽曲だから、起きたら、“おお、なんだこれ?”ってそういう感じで。完全に贈りものですね。だって夢の中で楽曲ができた歌だったから。メロディができて詞が出てきて、パッと起きて一気に書いたんですね。夢の中で詞を書いた。見えたから全部書けたっていう。歌詞は当初7番くらいまであった。それはちょっと長すぎるので、2番までにしました」
前述したように、徳永は「壊れかけのRadio」を“大阪が生んだ曲でもある”というふうに言っている。あれだけ、健やかな自分を転覆させた大阪に、それでも、いやそれだからこその青春の結晶を見ている。
「そうです。屈折を抱えつつも、一番にぎやかに自由奔放に生きたのが、大阪時代。そこから東京に出てきて、なんか、限定というか枠組みの中でずーっと生きてて、で、その枠組みを脱出する時、独立する時に、その玉を出した。“今日もうここで出そう”みたいな。一生のうち一回だけ出していいですよって、見えない誰かに言われて、30歳の時に出したんです。ある意味では、すごく苦しかったですよ。その後、事務所を独立して、もっと、シンドくなる」
チャンスの後にはピンチが訪れる。徳永のブレイクの陰には、土俵際いっぱいの英断と、次にやってくる闇を引き受ける、かすかな予感だけがあった。
「『壊れかけのRadio』の時っていうのは、赤い玉じゃないですか。」
と言われていますが、それについても語られています。
『半透明』(徳永英明 佐伯明・著 2006.2.27第1刷発行)
“第二章”より一部抜粋。
「『壊れかけのRadio』、これは違うんですよ。これは、このカテゴリーはたぶん二度と生まれてこないかもわからない。二度とっていうかしばらくは生まれてこないかもわからない。僕としては、今は『レイニーブルー』のカテゴリーに、僕は行こうと思ってますから。『壊れかけのRadio』っていうのは、すごく自分の中の苦しみから、苦しみと矛盾の中から生まれた曲なんで、たぶんここから先、苦しみと矛盾の中から楽曲が生まれてくることはないと思うんですね、少なくとも、しばらくは。作った時は、苦しみと矛盾の中から自分の過去にぐっと還って、そこにあった光を持ってきた曲ですから。過去の自分をこの曲の中で照らし合わせてますから、それはもう、この曲以降はないと思います」
「例えば、藤沢周平さんも言ってますけど、“この曲を聴くと昔を思い出すんだ、思春期を思い出すんだ、青年に還れるんだ”っていうのは、みんな少年に戻れるところの、あの時のあの思い出を――それが、戦時中の思い出だったり――そういったところの一点、一番自分の思春期になりかけたところにフォーカスしてる歌ですからね。やっぱりなんかひもじさとか苦しみとか、そういったものからじゃないと、生まれてこないカテゴリーなんで、これはたぶんしばらくないと思います。ないし、出ないほうがいいかなと」
つまりは、自分の身を切るようにして生まれた楽曲の最たる例とも、言えるのだろうか。
「うーん、逆に言うとこれは身を切ったかどうかっていうことよりも、その……。すごい比喩になりますけど、よく“赤い玉が出たら、一つ人生終わり”って言うじゃないですか。赤い玉ですよ。僕にとっては。赤い玉を出したんですね。でも白い玉は、たくさんある。赤い玉が出ただけであって。白い玉はたくさんあるから、いいの。そのうち汚れて白い玉が赤くなる可能性もある。人生のうちに、大事な時に赤い玉、これを使いなさいっていうパワーを一つ使ったっていうことですね。なんかもうホントどうにもならない時だけフタをあけてこれを使いなさいっていう、そういったもので、だから、あそこでこれを使わなければ終わってたかもわからない。そういう時に大事な玉を使ってしまいましたね。そう、赤い玉だもん。そりゃヒットしないとおかしい」
こんなふうに発言する時の徳永は、やはり、見えない波動を確かに感知しているように思える。
言い換えれば、ヒット曲に必要な、個人内の波動と世の中の波動との偶然にも見える必然的共鳴である。
「この曲は、朝起きたらそこに楽曲が用意されていたみたいな楽曲だから、起きたら、“おお、なんだこれ?”ってそういう感じで。完全に贈りものですね。だって夢の中で楽曲ができた歌だったから。メロディができて詞が出てきて、パッと起きて一気に書いたんですね。夢の中で詞を書いた。見えたから全部書けたっていう。歌詞は当初7番くらいまであった。それはちょっと長すぎるので、2番までにしました」
前述したように、徳永は「壊れかけのRadio」を“大阪が生んだ曲でもある”というふうに言っている。あれだけ、健やかな自分を転覆させた大阪に、それでも、いやそれだからこその青春の結晶を見ている。
「そうです。屈折を抱えつつも、一番にぎやかに自由奔放に生きたのが、大阪時代。そこから東京に出てきて、なんか、限定というか枠組みの中でずーっと生きてて、で、その枠組みを脱出する時、独立する時に、その玉を出した。“今日もうここで出そう”みたいな。一生のうち一回だけ出していいですよって、見えない誰かに言われて、30歳の時に出したんです。ある意味では、すごく苦しかったですよ。その後、事務所を独立して、もっと、シンドくなる」
チャンスの後にはピンチが訪れる。徳永のブレイクの陰には、土俵際いっぱいの英断と、次にやってくる闇を引き受ける、かすかな予感だけがあった。
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